先に旅立った人が、この世界に遺した品たち
故人が遺した物品を「遺品」や「形見」と呼んでしまうと、なんだか触れてはいけない厳かなもののような気がして、そのままタンスの奥に仕舞っておきたくなる人も多いでしょう。
しかし、その品を誰かが引き継いで愛用することで、それは永遠に道具としてあり続けるのではないでしょうか。道具に込めた故人の想いは、ともに生き続けるかもしれません。
次の世代に引き継がれた品たちを探訪する「次のあるじ」。第二回目は東京の北区で4代続く畳店「八巻畳工業」が舞台です。
会えずして先立った祖父の存在。イグサの匂いで思い出す幼い頃の記憶
「祖父は毎日店先に縁台を出して、仕事の合間に近所の人と話しながら湯のみでお茶を飲んでいる……と見せかけて、中身は日本酒……。そんな、『人』と『お酒』が好きな人だったそうです(笑)」
自身が生まれる前に亡くなった祖父、源太郎(げんたろう)さんのことを語る、八巻畳工業四代目社長の太一(たいち)さん。
八巻畳工業は太一さんの曽祖父にあたる喜久蔵(きくぞう)さんが明治40年頃に創業した歴史ある畳店です。110年以上にわたって“街の畳店”として地域に根ざし“早くて丁寧な仕事”でさまざまな要望に応えてきました。
太一さんは幼少期から畳屋の息子として、イグサの匂いや工場の雰囲気を身近に感じていたそうです。
「学校が終わると家に帰る前に工場に寄って、親父と職人さんに『ただいま』を言うんですよ。そのままリュックをおろして、床に落ちているイグサやワラの切れ端で何かを作ってみたり。工場は子どもの僕にとって最高の遊び場でした。当時の畳製作は全て手作業だったので、包丁や畳針など、色々な道具がそこら中に置いてあったんです。調子に乗ってはしゃいでいると、親父から『気を付けろよ』とよく注意されました」
19歳で親方に。暗中模索の末に気付いた畳作りの面白さ
太一さんは高校を卒業後、インテリアの専門学校に進学。室内装飾の基礎を学びました。専門学校を卒業後は進路に悩みましたが、結局お父さまであり三代目社長の直人(なおと)さんに頼まれて家業を手伝うことに。
「でも、畳屋だけは継ぎたくなかった」
戸惑いを抱えていた太一さんの意に反し、直人さんが区議会議員に当選したことをきっかけに、太一さんは19歳で早くも親方業を受け継ぐことになったのです。
畳製作のイロハもままならず、社会人としても新米だった太一さん。仕事の楽しさややりがいを見出すことができずに苦しい時期を過ごしました。
「思い出すのも恥ずかしいくらい、当時の僕は本当に荒れていました。一日置きに仕事をサボるし、毎日のように寝坊するし、金髪にピアス姿で、お客さんのところに行っても挨拶ひとつできないという……。親父とは毎日のようにケンカをしていましたね。この頃畳の製作はほぼ機械で行うようになっていたので、僕が子どもの頃に見ていた工場のドキドキワクワクする雰囲気とは違い、“マシンに畳を作らされている”そんな感覚でした」
そんな息子の姿を見兼ねた直人さんは、太一さんを半ば強引に畳の職業訓練校に通わせることに。三代目として、二代目と先代の苦労をよく知る直人さんには「自分たちの代でこの伝統を途絶えさせてはいけない」という使命感にも似た強い思いがあったのかもしれません。
そんな直人さんの気持ちが届いたのか、太一さんにとっての“荒業”は功を奏し、太一さんの姿勢は少しずつ変化していきます。
「訓練校で一から手縫いの作業を覚えたら、畳製作が徐々に楽しくなっていきました。人によって使う道具も違えば作り方も違う。例えば関東と関西でも作り方が違うなんて、それまでまったく知らなかったんです。畳作りの奥深さにのめり込み、訓練校を卒業してからは自分で訓練を続けて畳製作技能士1級の国家資格を取得しました」
先代から引き継いだ道具と意思。四代目として踏み出した新たな一歩
訓練校を卒業後、新たな気持ちで工場に立つようになった太一さん。人によって使う道具も違えば作り方も違う……。
畳製作の知られざる一面を覗き見た太一さんは、ふと工場の片隅に置かれていたとあるものたちを手に取ったのです。
それは、先人の職人たちが使ってきた畳作りの道具。現役を引退してからも、二代目と三代目が使っていた品はしっかりと残されていました。
年季の入った道具から、職人たちが受け継いできたものづくりの精神と各々の個性を感じ取った太一さん。会ったことのない二代目の仕事ぶりに思いを巡らせ、喧嘩の絶えなかった三代目の意思も引き継いで、道具たちの「次のあるじ」となりました。
「仕事自体は訓練校に通う前と変わらず、機械を使った効率的な製作がほとんどですが、手縫いの技術を覚えてからはマシンに向き合う時の姿勢はガラッと変わりました。手縫いは畳製作の原点。手縫いでの作り方がわかるようになると、機械がなぜこういう動き方をするのかわかるようになりました。すると、それまでは機械に“作らされていた”のが、機械を“操れる”ようになったんです」
三代の想いを背負い、自らの足で力強く立った太一さんは、畳の素晴らしさを全国に発信すべく、さまざまな新しい取り組みを始めるようになりました。
新素材を使った畳を考案したり、豊富なカラーバリエーションを展開するといった若手ならではのフレッシュなアイデアだけでなく、毎年熊本のイグサ農家に泊まり込んでイグサの栽培や収穫、製織を体験したり、子どもの“畳離れ”を食い止めるべく地元の幼稚園や小学校に畳を寄付したりと、溢れるバイタリティで畳そのものの普遍的な価値を伝え続けています。
「畳は日本文化の象徴であり、同時に優秀で素晴らしい床材でもあります。どんなに機械化が進んでも、原点が手縫いであることを決して忘れてはいけません。その技術を受け継ぐことは四代目としての使命。自分の息子が大きくなったとき、『父ちゃんも頑張ってたんだぞ』って、擦り減った自分の道具を見せてあげたいです」
先人が使っていたボロボロの仕事道具は、声にならない大切な言葉を今に生きる後世に伝えてくれていたのでした。
「次のあるじ」では、故人の想いを継がれた品たちを今後もご紹介していきます。
ライター/下條信吾
写真/黒羽政士
編集/サカイエヒタ(ヒャクマンボルト)
取材協力:有限会社八巻畳工業
東京都北区滝野川2-34-4
03-3917-9827