画像: Photo by seth schwiet on Unsplash
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弔い。
どこか遠くにあるようなその響きは、そっと耳をすませてみれば、私たちの日々にもきちんと息づいています。死に向かって生きるわたしたちの「今」を、僧侶ライターの小鳥が切り取ったり、切り取り損ねたりする、ゆるめのコラムです。ちょっとだけお付き合いください。

《 小鳥 》
ライター、僧侶。30数年前にお寺の子として生まれ、僧侶となり、両親とともに実家の寺で暮らしながら、日々、言葉を紡いでいます。

   

風の姿を見たことがありますか?

「風の音が聞こえる」とは言うけれど、「風が見える」とは言わないように、私たちは風の姿を知りません。けれど、たしかにそこに風が吹いていることだけはわかります。

ぴゅーっと音が響いてくるし、頰を撫でていく感触もある。周りの草木も風に葉先を攫われて揺れています。

それそのものは見えなくても、周囲に広がる作用によってその存在に気づかされるというのは、実はよくあることです。

人間の気持ちも、少しそんなところがあるかもしれません。優しさや親切心といったものも、確かにその存在は感じるものの、そこに実体はありません。

半分は優しさでできているという某頭痛薬のように、人間の気持ちも目に見えていれば話が早いのですが、そうはいかないようです。

見えぬけれどもあるんだよ、と歌ったのは山口県出身の詩人、金子みすゞですが、いまの生活のなかで、私は「見えぬもの」をどれくらい感じて暮らすことができているだろうか、と思うのです。

* * *

お寺で暮らしていると、当たり前ですがお寺に参って来られる方とよくお会いします。(本当に当たり前だな……)

ひとり、40代くらいの女性で、お寺の敷地内にあるお墓を訪ねてよくお参りに来られる方がいらっしゃいます。仕事の前や、休みの日、時間を見つけてはお参りされているようでした。

笑い皺の深い、笑顔の綺麗な人で、この人はいつもお墓の前でなにを考えているのだろう、などと下世話なことを考えてみることもありました。

ある日、彼女がやけに華やかなお花を抱えて境内を歩いておられるのに出会ったことがありました。

「お参りですか?」と尋ねると、
「はい。今日は私の誕生日なので、母にお礼をしようと思って」という言葉が返ってきました。

それから簡単にいくつか言葉を交わし、どうぞゆっくりお過ごしくださいね、と伝えてから別れました。

自分の誕生日に、母親のお墓にお礼に参るという彼女にとって、母親の存在とは、目には見えずとも日常にしっかりと息づいているものなのだなと、驚きつつ思ったのを覚えています。

画像: Photo by Matthew Smith on Unsplash
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こういう話をすると、「うちは親と関係が良くないですから」とか「しあわせなご家庭でうらやましいです」とおっしゃる方もいらっしゃいます。お気持ちはよくわかります。親と子の関係など複雑なのが当たり前で、完璧にしあわせな家族というものも存在しないのですから。

けれど、その縁が死によって分かたれたとき、姿も見えず、声も聞こえない、もう出会うことのないその人の存在と、より深いところで縁が結び直されるということは、あると思うのです。出会いなおす、と言っても良いかもしれません。

通夜や葬儀、その後の節目ごとの法要などによって、少しずつ亡くなった方との縁を結び直していく、出会いなおしていくという方の様子を何度かみたことはあります。

きっかけは、故人の友人が通夜に参ってきて語る、故人の意外な一面かもしれないし、喪主が語る言葉──生前には語られることのなかった故人への思いかもしれない。ときには僧侶の法話がきっかけになることだってあるでしょう(あってほしい…)。

その出会いなおしは、突如訪れることもあるでしょうし、長い時間をかけてじわじわと変化していく場合もあるでしょう。そして、その過程をこそ、人は弔いと言ったのかもしれないと、私は思うのです。

ずいぶん前のことですが、お連れ合いを急な事故で失くした男性がおられました。事故から10年後、送ってこられた年賀状に「やっと自分の足で歩んでいけるような気がしています」と書き添えてありました。その方の弔いには、それだけの時間が必要だったのだろうと思います。

* * *

弔いとは、いのちを終えていった人のためのものというより、今ここで生きている人自身のなかに起こる現象のことだと私は思います。

わたしたちの死の原因はいつだって、生まれてきたことなのです。誰しもが生まれたからには、死に向かって歩んでいる。そのことを、強く思い出させてくれるのが、身近な人との別れです。

もう、目には見えないその人の存在が、目に見えないからこそ、かえって強く響いてくるのです。

いつかいのちを終えていく私たちの「今」が、どれだけの見えない存在によって支えられているのか、ときには思いを馳せてみても良いかもしれません。

画像: Photo by Daiga Ellaby on Unsplash
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タイトル画/香珠(@karuna_721

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