弔い。
どこか遠くにあるようなその響きは、そっと耳をすませてみれば、私たちの日々にもきちんと息づいています。死に向かって生きるわたしたちの「今」を、僧侶ライターの小鳥が切り取ったり、切り取り損ねたりする、ゆるめのコラムです。ちょっとだけお付き合いください。
《 小鳥 》
ライター、僧侶。30数年前にお寺の子として生まれ、僧侶となり、両親とともに実家の寺で暮らしながら、日々、言葉を紡いでいます。
この世は素晴らしい!……とは限らない。
もちろん素晴らしいな、美しいな、捨てたもんじゃないな、という気持ちは抱く。それはとても満たされる瞬間だ。救いのようにも思える。
だけど、そんな奇跡のような瞬間以外は、「素晴らしい人生」なんていう漠然としたプレッシャーに晒されると、自分がなんだかすごくダメに思えてしまう。
そんなもんじゃないだろうか。少なくとも私にとっては、そう。「この世は素晴らしい」こと前提で生きていると、人生はちょっと……いや、かなりしんどい。
一方、仏教の根本原理は「この世は苦である」だ。
これを知ったとき、私は心底「よかった〜〜」と思った。「そうだよねえ!!」と思った。
人生は思い通りにならないことばかりだし、夢もかなうとは限らない。夢を見られる環境にすらいられないこともある。
努力は必ず報われるわけではないし、手に入れたものはいつか手放さなければならない。
一生懸命生きていてもいつかは老いるし、病むし、やがて死んでいく。
「そういうもの」なのだ。誰にも等しく苦しみはやってくる。
死に向かう苦しみは誰にとっても避けられることではないが、生の苦しみだって、なかなか避けることができないのだ。
でも、だからこそ。頑張れるな、と私は思う。
「この世は素晴らしい」ではなく、「この世は苦である」という教えは、私のままならなさ、至らなさ、未熟さ、儚さを包み込むもののように感じる。
「全然素晴らしくない自分」を、肯定してくれるような気がするのだ。
──「確かなものがほしい」
──「でも手に入らない」
人はこの繰り返しのなかで生の苦しみを感じるのではないだろうか。
しかし「確かなもの」を手に入れるのは、この、諸行無常、うつろいゆく世の中では、なかなかの難題だろう。それなのに、一生懸命「確からしいもの」を追い求めては裏切られ、追い求めては得られない苦しみにあえぐ。手に入れたと思ったら思ったで、その先の苦しみもある。
「この世は素晴らしい……はずだ」と思い込んでいると、そんな苦しみの人生は到底受け入れがたいものだ。得るべきものを得ていない自分を認めるのは、胸が張り裂けそうなくらい辛い。
でも「この世は苦である」と知っていると、もう少し違うものの見方ができるのかもしれない。言い方を変えると、苦しみの根本にあるものを知っている、ということ。
仏教では、苦しみの根本にあるものは何であると考えるか。それは執着だ。
「確かなものがほしい」と思ってしまう自分の心だ。
それを知らずに苦しむのと、苦しいけれどその原因がどこにあるのかを知っているのでは、ずいぶん気持ちの置き具合が違うのではないだろうか。
そして、さらに言うと、仏教徒として生きるということは、苦しい人生をともに歩んでくださる存在と出遇うということなのだ。他の宗教に帰依する人にも、きっとそういう存在との出遇いがあるのだろうし、宗教ではないところで、そういう出遇いをする人もいるだろう。
しんどい人生の道程を、ともに歩み、悲しいときはともに悲しみ、落ちるときはともに落ちていく。苦しみのなかにある私が、その苦しみごと受け入れられる、確かな安心。
仏教に帰依する者にとっては、仏さまこそが、その「確かなもの」なのだ
「この世は苦である」から始まるのが仏教のみ教え。
けれど、だからといって「なにをしても無駄だ」「むなしい人生だ」と、悲観するわけではない。
いろいろしんどいけど、でも生きていく。この苦しみの世を歩んでいくための灯火が仏法なのだ。
抱える苦しみは変わらないけれど、自分の苦しみを携えて、生きていくことができるようになる。そこにあるのは、安心して悩んでいくことのできる人生。
こういうわけで、私は「人生は苦である」と知ることができて、よかったと、そう思うのです。
どうかすべての人の人生に、よりどころとなる「確かなもの」との出遇いがありますよう。仏教じゃなくてもいい、宗教じゃなくてもいいから、ときに苦しく暗い道のりを、照らしてくれる存在がありますように。