弔い。
どこか遠くにあるようなその響きは、そっと耳をすませてみれば、私たちの日々にもきちんと息づいています。死に向かって生きるわたしたちの「今」を、僧侶ライターの小鳥が切り取ったり、切り取り損ねたりする、ゆるめのコラムです。ちょっとだけお付き合いください。
《 小鳥 》
ライター、僧侶。30数年前にお寺の子として生まれ、僧侶となり、両親とともに実家の寺で暮らしながら、日々、言葉を紡いでいます。
「期待しています!」、そう言われると、ずぶずぶと重たい泥のなかに沈んでいくような気持ちになる。抜け出そうと、思えば思うほど、ずぶずぶはまっていく。
私は期待に弱い。期待に応えようとちょっとでも思おうものなら、たちまちフリーズしてしまうのだ。
そういうわけで、「僧侶の視点から日常を切り取った文章を」とか言われると、嬉しくて諸手を挙げて依頼を引き受けるものの、だいたい締め切り前にはパソコンの前で静止してしまうことになる。それはそれは落ち込む。
「私にはやっぱり向いていないんだ」と、何度もそう思う。しばらくして「いやでも、そうでもないかもしれない」と思い直す。基本的には落ち込んでいて、ときどき浮上して。その繰り返しを重ねながら、なんとかここまでやってきた。
そんなことを考える暇もなく、すべきことやしたいことをひたむきに続けられる人もいるのだろう。そういう人がうらましいという気持ちはちょっぴりある。いや、けっこうある。でも、私はそうではないのだから、もう私のままでやれることをやるしかないのだ。
人には人の悲しみがあり、私には私の悲しみがある。それを忘れてはいけない。
期待に応えたい、という気持ちのそばには「他者」がいる。正確には「他者からの視線を気にしている自分」がいる。「できれば人から良く見られたいと思う自分」がいる。
また、そこには「自分は人から良く見られる私であるべき」という脅迫めいた自意識も見え隠れしているような気がするのだ。
そしてその先には、人や自分を条件で判断してしまう、という苦しみが待っているのではないかと私は思う。
上手くできる人、役に立つ人、仕事ができる人であるべき。
なにも上手くできない人、役に立たない人、仕事ができない人は良くない。
上手くできる自分、役に立つ自分、仕事ができる自分であるべき。
なにも上手くできない自分、役に立たない自分、仕事ができない自分は良くない。
そんなの、辛すぎるではないか。
もちろん社会生活を送るにあたって、なにかが上手くできること、役に立つこと、仕事ができることは大切だ。そのための努力もまた尊い。
けれど、人には、上手くできなくてもいい、役に立たなくても良い、仕事ができなくても良い、あなたの存在そのものが尊いのだ、と認められる世界が必要だ。
それは家庭かもしれない、友人かもしれない、本のなかの物語かもしれない、見知らぬ人の言葉のなかにあるものかもしれない。人によって拠り所となる場所は異なるだろう。
お寺の本堂もまた、本来そういう空間であったのだと思う。
本堂の正面には、仏さまがご安置してある。仏さまがおられ、さまざまな美しい仏具、お花やろうそくの灯火がある、その空間は内陣と呼ばれ、仏さまの世界をあらわしている。
つまり、私たちの生きるこの世、いわゆる俗世とは少し違った空間なのだ。仏さまは、私たちを「役に立つ、役に立たない」という物差しではかったりしない。
この世の理、この世の物差しで測られることに辛くなった人が、この世の理とは違うルールの世界に逃げ込むための場所。それがお寺の本堂であり、かつてはどの家にもあった仏間なのだと思う。
なにもできないまま生まれてきた人間が、やがて老いて病んでなにもできなくなって死んでいく。それでも尊いのだ、と。他のだれでもない、ただ「あなた」が尊いのだと認められる場所が、仏さまの前なのだ。
母親として、父親として、妻として、夫として、社会人として、大人として、若者として、年寄りとして……さまざまな役割や、それに伴う期待やプレッシャー、あらゆる条件を取り外して、ただの「あなた」でいられる場所。
どうか、すべての人にそんな場所があれば良い。
そう願う、年末です。