数え切れないほどの時間をともにした親友でも、知らない一面はあるもの。「あのひとの影踏み」は、大切なあのひとの思い出を知る人、想いが残る場所を訪れ、まだ見ぬ故人の一面をたぐり寄せる企画だ。
第二話は、高校生から付き合いのある親友を亡くした春植(はるき)さんが、親友が住んでいた街、親友の両親、放課後によく通ったもんじゃ焼き屋に足を運び、そこに残る親友の”影”を踏みに行く。
当時は今ほどバリアフリー化が進んでいなかった街
春植さんの親友が亡くなったのは、数年前のこと。出会いは高校生のとき。入学時から多少の交流はあったものの、2年生のとき同じクラスになり、友人グループ数名と”つるむ”ようになったという。
親友は、春植さんと出会う前から、身体の筋力が低下する、ある病気と闘っていた。
親友が住んでいた街を訪れるのは、約5年ぶり。一周忌のとき以来だ。
春植さん「この街もすっかり都会になりましたね。高校生のときは駅前にしかお店がなくて、高いところに上ると景色が真っ暗だった。今では遠くまでよく見えますよ。最後に来たのは……彼の一周忌のとき。そのときよりも、また少し賑やかになったかな」
春植さんと親友がつるむようになった高校2年生のとき、はじめは学校の近くにあるファミレスやカラオケを遊び場にしていたが、次第に親友が暮らすこの街を訪れるようになった。その理由はふたつあった。
ひとつは、親友が病気の影響で電動車いすを利用しており、自宅から離れた場所で遊ぶことが難しかったからだ。若い男性が数人いても親友を背負い、100キロ近い電動車いすを移動させることは簡単ではなかった。それに当時は今ほどバリアフリー化が進んでおらず、通路がせまいお店ばかり。だから、彼が暮らすこの街に春植さんはよく訪れるようになった。
もうひとつは、親友を迎えに来るお母さんのため。毎回お母さんが車で迎えに来てくれるのだが、春植さんと親友が通っていた高校の近くは道路がせまく、車が停めづらい。それに、「もしなにかあったときも、自宅の近くの方がお母さんも安心だろう」という春植さんの配慮もあったそうだ。
親友と行動することではじめて気づく街の不便さ
この街で遊ぶようになってからは、親友のお母さんが迎えに来るだけでなく、春植さんと友人グループ数名で自宅まで送ることも増えたという。
春植さん「この坂の先に親友の自宅があって、僕を含めた友人グループ数名でよく送りましたよ。坂の角度が急で、彼の電動車いすはとても重いからなかなか進まない。だから、みんなで後ろから押すんですよ。歩けば10分もかからない坂なのに、倍以上の時間がかかりました」
高校3年生のとき、駅直結の商業施設が完成。親友の自宅は商業施設の近くにあり、そこで遊ぶことも増えたそうだ。
春植さん「商業施設ができてから、さっきの坂は使わなくなりました。駅から商業施設の中に入り、エレベーターを使って奥まで進むと、彼の自宅近くまで行けるんです。便利になったと思うと同時に、彼と行動することで、身体が不自由な人にとってどれだけ街で行動することが難しいかはじめて気づくことも多かった」
春植さんも知らなかった恩師の働きかけ
かつて親友と過ごした街を久しぶりに訪れたこの日、企画の趣旨を親友のご両親に説明したところ、話を聞くことができた。
春植さん「ご無沙汰しています。僕が知らない彼の一面を知りたくて、おじゃましました」
お母さん「いいんですよ。こちらこそ、わざわざ来ていただいてありがとね。あの子も喜んでいると思います」
お父さん「あの子はあんまり自分のことを話さなかったから、力になれるかわからないけど……」
「口数が少ない分、文章は達者だった」と言いながら、両親は親友が趣味にしていた短歌の作品を見せてくれた。
これは亡くなった後、荷物を整理していたら見つけたものだという。春植さんは親友が短歌を趣味にしていたことを知らなかったが、高校卒業後はメールでやり取りをするようになり、その文面から文才は感じていたそうだ。
春植さん「手の筋力が低下していたこともあり、彼はメールの返事が遅かった。その代わり、文章がきれいなんです。小説っぽいというか…、とにかくていねいでしたね。でも、短歌を趣味にしていたとは知らなかったなぁ」
高校進学時、電動車いすの生徒が通える設備が整っていないことを理由に学校側には入学することに難色を示されたが、両親の「身体のことではなく、試験の点数で判断してください」という願いを後押ししてくれた先生がその高校にいたという。その先生の働きかけがあり、入りたかった高校に無事入学できたそうだ。
お母さん「先生のおかげであの子は高校に入学できたし、在学中も不自由なく過ごせました。中学校まではトイレのたびに私が学校まで行っていたけど、先生が『トイレのお手伝いなら僕でもできますよ』と言ってくれたんです」
春植さん「確かに、面倒見のいい先生で生徒から信頼されていました。でも、入学の段階からそこまで働きかけをしてくれていたんですね。あの先生のおかげで、僕は彼と出会うことができたのかぁ……」
「春植くんのおかげで、大学生活を楽しむことができたと言っていたんですよ」とお母さんが持ってきてくれたのは、親友が大学の友人たちに宛てた手紙だ。
お母さん「あの子は中学校まで引っ込み思案で、自分からは輪の中に入れないタイプ。でも、高校に入ってみんなが仲良くしてくれて、その下地があったから大学でもいい人間関係を築けたみたい。髪の毛を染めて、いわゆる大学デビューもしちゃった(笑)」
短歌を趣味にしていたこと、恩師の働きかけのおかげで高校に入学できたこと、春植さんと友人グループのおかげで高校生活を楽しみ、その延長線上で大学生活が充実したものになったことなど、両親から貴重な話を聞くことができた。
ドリンクの飲み方で病気の進行を感じていた
最後に訪れたのは、放課後によく通ったもんじゃ焼き屋だ。駅をはさんで反対側に移転していたが、お店の看板や雰囲気は変わらない。
ただ、時代の流れか、入口がバリアフリーになっていた。
十数年ぶりの訪問。当時のことを思い出しながら春植さんが注文したのは、みんなでよく食べた「もちチーズもんじゃ」だ。
春植さん「本当に懐かしい。彼は年々筋力が低下していくから、高校生のころは自分でグラスを持ってドリンクを飲んでいたけれど、大人になってからは僕がグラスを持って飲ませていました。そういうところで、病気の進行を感じていたんです」
春植さんと親友が最後に会ったのは亡くなる少し前だが、友人グループで集まれたのは同窓会が最後。次にいつ集まれるかわからないからと、高校卒業10周年を記念して同窓会を企画したそうだ。
お母さんによると、同窓会自体は楽しんでいたが、年々衰えていく自分と仕事や子育てに充実している友人たちとを比べてしまい、複雑な気持ちを抱えていたという。
春植さん「亡くなって数年経ちますけど、彼のことは毎日のように考えますよ。僕は自分で事業を立ち上げて、毎日一生懸命働いている。それでも気を抜いてしまうことがある。そんなとき、彼から『何やっているんだよ。俺の分まで頑張れよ!』と言われている気がするんです。今日は、その声がより大きく聞こえました」
ひとりでもんじゃ焼きを食べる春植さんは、懐かしさと寂しさを同居させた顔をしていた。
春植さん「今度は彼と仲が良かった友人グループで食べにきます」
親友との思い出が詰まったもんじゃ焼きには、今なお彼の影がそこにあった。
短歌を趣味にしていたこと、高校時代の恩師の働きかけがなければ出会えなかったかもしれないこと、大学に進学してからも良い人間関係を築いていたこと。
影を踏むことで、春植さんはまた新たな親友の一面を知ったようだった。
ーー忘れられない大切なあのひとの影を探す「影踏みの旅」。
あなたも出かけてみませんか。きっとそこには、故人の“喜びの記憶”が待っているはずです。
ライター/大川竜弥
写真/高山諒(ヒャクマンボルト)
編集/サカイエヒタ(ヒャクマンボルト)
YouTube「病床の日々を詠んだ亡き親友と出会う」あのひとの影踏み第二話
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