画像: Photo by Larm Rmah on Unsplash
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弔い。
どこか遠くにあるようなその響きは、そっと耳をすませてみれば、私たちの日々にもきちんと息づいています。死に向かって生きるわたしたちの「今」を、僧侶ライターの小鳥が切り取ったり、切り取り損ねたりする、ゆるめのコラムです。ちょっとだけお付き合いください。

《 小鳥 》
ライター、僧侶。30数年前にお寺の子として生まれ、僧侶となり、両親とともに実家の寺で暮らしながら、日々、言葉を紡いでいます。

今年の冬は暖かいなぁ。
と喜んでいたら、立春をすぎて思い出したように寒さがやってきた。

なんで今更……とぶつぶつ言いながら、今年はいらないと思っていたモコモコの暖かい肌着を引っ張り出す。

みなさんはご存知かどうかわかりませんが、僧侶が着ている法衣というのは防寒に適していない。裾からも、襟元からも、袖からも、冷たい空気が入り放題。暖かいわけがないのである。某ファストファッションブランドがとても暖かい下着のシリーズを発売してくれたことで一番喜んだのは世の僧侶たちかもしれない。

(ちなみに夏の法衣もまた快適とは言い難い。これも考えてみれば当たり前なのだけど、詳しい話はまた夏に)

画像: Photo by Aaron Burden on Unsplash
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そんなわけで、まだまだ寒い立春ですが、やがてかならず春はくる。
立春をすぎ、雨水、啓蟄、と季節がすすみ、つぎにくるのはもう春分です。

春分がやってくるということは、お彼岸の季節。一応おさらいしておくと、春彼岸というのは、春分の日を中日にしてその前後3日ずつの計7日間のことをいいます。秋彼岸には秋分の日が中日になるというわけ。

この期間に、昔から人々は、お寺に参ってお説教に耳を傾けたり、家族そろってお墓におまいりしたりして過ごしてきた。でも、実はこれ、日本だけの習慣。

「彼岸」という言葉自体はもともとある仏教用語なのだけど、一年のうち特定の時期を「お彼岸」と呼んで、お墓まいりをしたりお寺で法要をしたり……というのは日本だけの文化です。

じゃあそもそも「彼岸」という言葉はなにを指すのかというと、仏さまの世界のこと。お浄土とか、極楽浄土、西方浄土……いろいろ言い方はある。

彼岸に対して、私たちが生きているこの世界のことを「此岸」という。「この岸」と書いて此岸。「かの岸」と書いて彼岸。わかりやすいですね。

画像: Photo by Ali Nuredini on Unsplash
Photo by Ali Nuredini on Unsplash

私たちが生きる世界を、仏教ではどう捉えているのか、ということが此岸の語源をたどるとよくわかる。此岸はインドの古い言葉で「サハー」といい、それを意訳して漢字を当てると「忍土」となる。忍土とはすなわち、耐え忍ぶ世界、ということだ。

思い通りにならない生活や世の中を、思い通りにしたいという思いを捨てきれないまま生きる私たちの日々は、まさに「耐え忍ぶべき世界」なのだろう。

そして人々は、苦しみから離れた悟りの世界、つまり彼岸に、いつか生まれていくことを思い、手を合わせた。先にこの世のいのちを終えていった愛しい人たちを思い、やがて自分もいのち終えていく身であることを思い、手を合わせたのだ。

   

ところで、あなたはいつから「手を合わせる」ことを覚えましたか? 一番最初に仏さまの前で手を合わせたときのことは覚えていますか?

私は覚えていません。物心つく前からきっと、両親や近くの大人たちの姿に教えられ、知らぬ間に手を合わせることを覚えてきたのでしょう。

なにが言いたいかというと、私がいま手を合わせている、イコール、それを教えてくれた誰かがいたはずだ、ってこと。「こうするのよ」と丁寧に教えてもらった人もいれば、言葉はなくともその姿でもって仏さまの前で手を合わせることを教えてもらった人もいるだろう。

とにかく、その誰かがいなければ、いまここで私が手を合わせていることはないわけです。

もっと遡れば、私に手を合わせることを教えてくれた誰かも、また他の誰かに教えてもらってきたはず。こうしてずっとずっとずっと遡っていけば、いつかお釈迦様の時代にまでたどり着くことができる。

画像: Photo by Marco Chilese on Unsplash
Photo by Marco Chilese on Unsplash

気の遠くなるほどの時間、数かぎりない人々によって伝えられてきたものが確かに私にも届いている。

なんというか、「すごいなぁ」という語彙の欠片もないような感想しか出てこない。途方も無いほどすごいものを前にしたとき、人間の言葉は無力だなぁと思います。そういうときこそ、人は、ただ手を合わせることしかできないのかもしれない。

春のお彼岸、お寺にお参りする機会があれば、じっくり手を合わせてみてください。あなたのその手のなかから、何千年前のインドの土の香りが、中国の都の香りが、いつか幼き日の懐かしい香りが、漂ってくるかもしれません。

そして、あなたが、今、ここにいることのかけがえのなさを、手を合わせることで思い出してみてください。

タイトル画/香珠(@karuna_721

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